私は新卒でリクルートに入った。

当時(1997年だから、思い出すともう20年以上も昔の話だ)は、今では、信じられないことかもしれないけれども、就職活動で、会社説明会に参加する時、電話したり、はがきで申し込んだりしていた。

当然のことながら、テクノロジーだけではなく、文化も遅れていたと思う。

会社の採用サイドでは「女性活躍」なんて言葉も風潮もほとんどない20年前、いまだったら、それって、企業イメージが落ちるのではないか、という手法も言動も当然のことながらあったと思う。

さらには、当時は就職氷河期、私がいちばん強烈に現実を突きつけられたのは「女性は2倍頑張っても評価されないよ」というお堅い系の大手企業の言葉だった。

風潮として、優秀な女性は、だからこそ「ならば、私がその社風をかえてみせる」という気概で、大手企業の狭い門を潜って、逆境にもめげずに、能力を示し、仕事と育児を両立しながら、身を削って時代を変えてくれたのだと思うと、本当に、心から尊敬し、感謝している。
だからこそ、いまは、そんな時代を対立構造をできるだけつくらずに、敬意をもって進化させたいと私なりの試行錯誤をしている。

でも、そのとき、余裕も、勇気もない私は、「うちの会社は男女平等。女性に重い荷物を持たせないけど、重い責任は一緒」という言葉に惹かれてリクルートに入社した。

私は営業職だった。数字で当月の結果がわかる仕事だ。当然、短期的な成果や行動が可視化されやすい。

私の危機感としては、お客様は同じ値段で同じ商品を買うのに、新卒一年目の私から買うのは損なのだ、というものだった。経験と情報量が少ない営業マンから買うのはことで、商品のクオリティに大きな差が出る。会社にもお客様にも迷惑かける。だから、私は先輩の何倍も仕事しなくてはならない、そう思って頑張ってた。

雇い主であるリクルートにとっては、数字が達成できなければ存在していないのと同じ、むしろいるだけ邪魔なコスト、という風に自らを追い込んた。とにかく目標達成をしようという踏ん張ってた。
そんな私に、周囲が全面的に応援してくれたのはありがたかった。短期的に圧倒的に成果を上げたいと考える私にとっては、非常に良い環境だったと思う。(もちろん、長期的にそれでいいという話ではないので、私の自主性を尊重してくれた文化という意味で)

当時の、私の教育担当だった人や、当時私のマネージャーは、心から感謝している。随分負担だったとおもう。

朝から晩まで(それこそ始発から終電だった)会社にいて、質問しまくる新人、私が大事だと思うポイントをマーカーで引いくけど「全然違う!おまえセンスないな〜」と、何度も突き返された。論点がずれて、アホで、話にもならないのに、そもそも論から何度も指導してくれた。

プレイングマネージャーだった教育担当はたいそう取り扱いに困ったうえに、彼自身の仕事も圧迫してたと思う。

いまでは問題になるのかもしれないけれども、仕事の質問ばっかり終始してつきまとう私がうざかったのか、仕事で悩みすぎてる私は、このままでは鬱になると判断したのか「お前、早く彼氏作れ」という苦肉のアドバイスまでくれた。

さらに、当時のマネージャ会議では、私の働きすぎが議論になって「あいつに"頑張れ"といったら死ぬまで働いてしまうから言わないように」ということになったとのちにTさんから聞いたこともあった。

と、話が横道に逸れてしまったが、

そんな風に、ややめんどくさい新人の私に徹底的に関わってくださった皆さんは、そんな時間搾取新人にもめげず、その後、リクルートの中でも、めちゃくちゃ昇格昇進をしてたので、そうとうな方々だったんだと思う。私にとって最高の環境だったことは間違いない。

よく私は、リクルート出身者で私より年次の若い方から、「伝説の新人だったんですよね」みたいに言われることあるけれども、「うざい、しつこい、めんどくさいという意味で」(だけど、ほっとけないからなおやっかい)話題に上る、みたいな感じだと今でも思ってる。

とはいえ、そんなにお世話になっておきながら、私は、実は1年半ほどでリクルートを辞めてしまったのだ。

みんな優しく盛大に送り出してくれたけど、いわゆるリクルート用語で「卒業」というのには申し訳ないほど、与えてもらってばかりと今でも思い出す。

さらに、後日談のエピソードとして、私が起業したばかりの頃、自分の会社がうまくいくかどうか分からないのに「かもめ」という社内報のインタビューで巻頭2ページに大々的に取り上げてくれたのもリクルートの先輩だったし、私が作った最初の商品をたくさん買ってくれたのもリクルートの役員だった。


さらに、そんなふうに、起業してからも、おんぶにだっこだった私に、新人の頃教育担当だった方が、「おまえ、いつまでも、リクルート出身っていう肩書きに頼るなよ」と指導されたのは、今でもよく思い出す。

そんな、私も、リクルートを卒業して早20年ほど。

起業して、ある程度軌道に乗った時に、リクルートの創業者である、江副さんと会食させていただいたことがあった。

江副さんは、帰りハイヤーで、私を家まで送ってくれたのですが、その車中で、当時、私が女性マーケティング会社を経営していたので「あなたの会社のクライアントはどこ? 社名はどこ? とにかく、大手クライアントをたくさん味方につけなきゃダメだよ!」と、何度も何度も繰り返し、クライアント名を車中で問いただしてきたくらい、上司っぷりを発揮して、ほんといい思い出です(苦笑)

思い出すと本当に、営業マンだったんだな、関わったみんな思いだったんだなって。リクルートを愛していたんだっって。創業者になってから、それはよりじわじわ、そして強くわかります。全員家族にも置き換えられない、適切な表現が見当たらないけど、特別な存在。

そんな江副さんが創業者で、だからリクルートって暖かいんだなって。

実は、そのしばらくあとに、いまの社長である、峰岸さんとも会食させていただいたときも同様だった。(トレンダーズが上場した時にリクルートに株を持ってもらっていたので、お祝いしていただいのですが)帰りの車中ではやっぱり、いろいろと抽象的なことばかりではなく、具体的なことを、話した思い出は宝です…

というわけで、上記は、リクルートでの極めて個人的なエピソードの一部なんですが、言いたかったことの一つは、私は決して在籍中に優等生だったわけでないので「人材輩出企業、リクルート出身者」に名前がでると、いつも恐縮してしまうのです。

そんな私ですが、何気なく読んでいた以下の本に自分の名前が出てきた時には、驚きすぎて体に電流が走りました。

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ただ、事業を生み出す時の考え方は、リクルートの社訓にあるように、「自ら機会を作り出し、機会によって自らを変えよ」という個人スタンス
さらに、創業者スタンスとしては、「自ら事業を作り出し、仲間とともに、その事業によって社会を進化させよ」おそらく、それが、DNAという形ではないかと、私は解釈している。

そして、まだまだですが、創業者として、人として、関わった人たち全ての人たちの幸せを願っているのは、リクルートに江副さんの姿勢に続いて体現していきたい、もうひとつのDNAです。

だからこそ、いまのキッズラインによって、社会を大きく進化させ、自分の人間としての器ももっと広げ、提供できる価値を増やしていきたいのが、引き続きの目標でもあります。


キッズラインでは仲間を募集しています。


江副浩正
馬場 マコト
日経BP社
2017-12-19


江副さんご本人が書かれた以下の著書は大好きです。

かもめが翔んだ日
江副 浩正
朝日新聞社
2003-10-30





日経BPの方、著者の馬場マコトさま、土屋洋さま、取り上げていただき、献本もいただき感謝です。

(このブログは音声入力でばばばーーっと書きましたので、適切でない表現、配慮が足りない部分などがございましたら、お許しください。個人的な見解として書いたものですので、暖かくご容赦頂けると嬉しいです)